世の中には、たくさんの作品で溢れかえっている。
その中で、物語を「全部、夢でした」という終わり方……つまり
夢オチにすると大体炎上するみたいだ。
江川達也先生の「東京大学物語」は、大ヒットしてドラマ化や映画化もされた作品で
夢オチ(妄想オチ)として取り上げられている記事や動画をよく見かけた。
そもそも、夢オチがなんでこんなに悪く言われるのか?
原因の一つとして、考えられるのは漫画の神様・手塚治虫先生が夢オチを批判した
とされる。
以前、紹介した書籍「手塚治虫のマンガの描き方」にも一瞬出てくる。
悪い4コママンガの例として『なんでも夢のオチにしてしまう』とさらっと出てくる。
どうやら、この例が手塚信者たちの中で根強く刻まれ後の漫画以外の作品にも影響を
与えているの可能性があると思われる。
先ほど、例に出した江川先生もこの信仰に反抗したから夢オチにしたと考えられる。
※江川先生は手塚先生を漫画の神様ではなく「悪魔」というくらい批判する立場をとっている。
でも、この手塚先生の例だがどうも拡大解釈されている様に思う。
『なんでも夢のオチにしてしまう』
『なんでも』とわざわざ書いてあるのだ。
夢オチ自体は悪いのではなくて「なんでもかんでもみん~な~」は
ダメだよと言ってるのではないだろうか?
でも、たしかに夢オチだと後味が悪い感触がある。
この原因は何なのか、自分なりに考えてみた。
「最低な映画」として酷評された「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」(2019年)を
思い出した。
※ここからネタバレ注意!
ドラクエ5の物語をフルCGで再現していくこの作品は、世代的にもドンピシャな私は
めちゃくちゃ批判されているのは知っていたが息子と観に行った。
友人に止められるほどの映画って逆にレアだなと思ったwww
結局、スーファミ(スーパーファミコン)ドラクエ5ユーザーがVRで主人公になって
ストーリーを疑似体験するという内容。最後は、ハッカーがウイルスを投入してVRが
途中バグって、そのウイルスと戦う事になり原作とは全く違う内容になっている。
「夢ばっかり見てんじゃねーよ」
と、フィクション(夢)を楽しみに来た人たち(観客)に唾を吐きかけるウイルス。
そして、映画のクオリティが素晴らしいため、没入感はすごくて
ゲームをやっていた人間は最後までこの夢を見続けさせてほしかったんじゃないかと思う。
個人的には、今回の内容の方が心に残ったし誰もが望む形をあえて壊してメッセージを
発信した監督の攻めの姿勢に賞賛を送った。だって、絶対炎上するのわかってたはず……。
ゲームの中の体験は疑似的なものだけど、感動した事や勇気を出した事は本物なんだ。
エンディングでビアンカに殴られて痛みを感じている主人公は、それを表している。
しかし、物語の途中で一旦現実に引き戻された観客は、夢からたたき起こされていて
そのメッセージを受け取れる状態じゃなく、批判に繋がったのかなと思う。
これが「夢オチ」の批判に繋がる感情なのではないだろうか?
映画、ドラマ、漫画、小説なんでも素晴らしい作品に出会うと物語が終わってしまった後
ロスに入る事がある。
本を閉じても、停止ボタンを押してもまだ物語が続いている感覚が残っている。
余韻が、現実世界に戻っても物語の世界の残像を心に映してしまう。
夢オチはこれの真逆にある。
本を閉じる前に、停止ボタンを押す前に
「はい、夢は終わりですよー!!」
と強制的に終了させられる。
娯楽にふけるというのは、辛い現実から逃げ出せるわずかな時間。
心地よい眠りに入っていたのに強制的にたたき起こされて
再び、現実に戻される。熱中しているゲームを突然取り上げられたら
怒るのは、しごく当然の事なのかもしれない。
でも、逆に言うと少しドラックにも似た夢の余韻に浸るより
パッと現実に帰れるのは監督の愛ではないだろうか?
江川先生も宮崎駿監督も、いつまでも自分たちの作品を観ていてはダメになる
と警告しており、現実社会に生きる事が大事だと訴えられる。
「ヱヴァンゲリヲン」の庵野監督もそうだった。
こう考えると夢オチは、本当に悪なのかという気持ちになり
同時に人はいつまでも夢を誰にも邪魔されず見続けたい生き物なんだなと
思った。